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やかんと鍋と日記と

ぐうたらと生きる。

腹の中に住まう楽団の音色









ピロロロロロ、ギュルルルルル、ピロリ、グギュル。







お腹の中はいろんな音に溢れている。
胃に配属された消化係が、私が無責任に食べたものを文句も言わず、消化してくれているのだ。






昨日の夜、私たち夫婦は名古屋市栄でひとしきりショッピングを楽しんだ後、イイ感じの飲み屋を見つけようと街中をぶらついていた。

すると、高級感のあるおしゃれなBARが目についた。私たちは直感的に入りたいと思った。店先ではステーキをジューと焼いているのが見えて、入店意欲はさらに高まった。そして、少し店先でまごついた後、そんな客寄せパンダにまんまと誘われ、店内に入った。

店内にいる客たちは、スーツを着込んでいる人が多く、店内のムーディな雰囲気も相まって、エリート感が漂う空間となっていた。多少の場違い感を感じながら、席に着く。

コブサラダ、牡蠣とエビのアヒージョ、つぶがいのマリネ、そして、ステーキ。頼んだ料理はどれも美味しかった。特につぶがいのマリネが絶品で、寿司屋で食べるつぶがいよりも弾力があって旨かった。アヒージョには牡蠣の風味がオリーブオイルにふんだんに溶け出していて、パンに漬けて食べると、パンが牡蠣に変わった。私たちは思わずパンのおかわりを3回もしてしまったほどである。

私たちは幸福感を得ながら、家へ帰った。




その夜の腹の音は凄まじいものがあった。まるで、楽団が演奏しているかのように音を立てていた。

アヒージョを消化したら『ピギュルリ』といい、マリネを消化すれば『ポロロロロロン』という。コブサラダを消化すれば『パランボロン』といい、ステーキを消化すると『ドロログギャン』という。

そんな楽団の音色が、心なしか今日は鮮明で良質なものに聞こえた。きっと、良質な料理を食べたからだと思う。

最近会っていない親戚

私は結婚したにも関わらず、ほとんど誰にも連絡をよこさなかった。たいへん非常識な人間だと思う。案の定、父の姉は少し怒っていたようだ。

私の中で、結婚というのが2人だけに関係するもので、他に関係してくるのは両親、兄弟、特に仲の良い友達くらいだと、勝手に思ってしまったのである。

私たちの結婚に興味のある人なんて、殆どいないだろうというのが、私たちの夫婦の総意で勿論結婚式も開いていない。

だから、父の姉が怒っていると聞いたとき、『なんで?』と思ってしまったことを許してもらいたい。

今日は、そんな父方の姉から電話があった。
会話するのは実に5年ぶりくらいだと思う。

昔は正月やお盆に毎年集まって、酒を飲む会が催されていたが、私が成長するにつれ、そんな催しもいつしか無くなってしまっていた。

私は電話を取るや否や、敬語でいくかタメ語でいくか悩んだ。子どもの頃は、敬語などロクに使えなかったから、タメ語を使い笑い合っていた。でも、5年も会っていない相手にタメ語というのも何だか違う感じがするし、敬語だと逆に他人行儀な印象を与えてしまい、あまり宜しくないのではとも思うしで、電話をした直後は葛藤が頭を駆け巡った。

しかし、タメ語を使う勇気はなく、またそれでは上手く話せないような気がしたため、敬語にシフトした。

結果、私の言葉はよそよそしいものになってしまった。寸前まで仕事をしていたこともあり、何だか事務的な受け答えをしてしまい、何だか悲しくなった。

この悲しさをきっと相手も感じ取ったことだろうと思う。『あの子は、大人になって何処か手の届かないところへ行ってしまったのだ。』と思わせるには十分な会話のやり方だったと反省する。

昔のように振舞いたいけど振舞えないという葛藤が、私の心の中に言いようの無い気持ち悪さを残した。

美容師のコミュニケーション能力

美容師にとって、人とコミュニケーションを図ることは、もはや必須事項となっている。なぜ話すことが必要なのか、私には皆目見当もつかないが、そういう風潮があるのだから、仕方がないのだろう。

美容師が話しかけてくることを嫌がる人もいるが、私は嫌いではない。美容師にもよるが、毎日あらゆる人と話してきた人間には、それ相応の面白情報や鉄板ネタをもっているからである。

実際、名古屋に住んでいた頃に通っていた美容師さんは、とても饒舌で面白話をいくつも持っていた。その饒舌ぶりは凄まじく、ついには完全に髪を切る手を止めてまで、話に集中する猛者だった。でも、私はいつも非日常的なロックな精神をもった美容師さんの武勇伝を聞くことが大好きだった。

しかし、現在通っている美容師さんは、とても話が下手だ。言葉が繋がっていかないし、話してる内容が薄すぎて反応に困ってしまう。しかも、本の話やゲームの話、オカルトな話などを私にふってくるのだが、当人はあまりそれらに詳しくなく、結局沈黙を埋めるため、私が物凄く話すしかないのである。オカルト話に至っては、大好きだと言っておきながら、繰り出されるのは聞いたことのあることばかりで薄っぺらだ。挙句に、私が知ってるオカルト知識をいろいろ言っていると、逆に『詳しいですねー』と言われてしまう始末。私は決してオカルトに詳しくはない。美容師さんの『詳しい』の基準値が低すぎるのだ。

でも、別に薄っぺらだということが、悪いことではない。実際、私は特に何も思ってはいない。少し、話していてつまらないなと感じただけだ。

しかし、コミュニケーションが求められる美容師という職において、この応用の効かなさは致命的なのではないかと感じる。お客さんから聞いた色々な話を知識のプールに蓄え、別のお客さんに対し、プール内の知識を組み合わせながら会話をしていく。それくらいの能力は必要なのでは、と思う。








美容師の皆様、偉そうなことを言ってスミマセン。

おおきな大人になろう。

見知っているといった程度の間柄の人たちと飲みに行く。

親しい間柄でないから、内容の薄い外面を取り繕うためだけの言葉が行き交う。そして、皆否定したりされたくないから、自分が本当に思っていることには蓋をして、常識的なことを話していく。

私は常識的なことを押し付けられると、反発したくなる。でも、親しくもないから、反発しにくい。この状況が物凄くストレスになる。

常識は、その地域、年代、性別によって全く異なることであるにも関わらず、多くの人がそう言っているからという理由で、自分の考えに強い自信をもち、人の人生に介入する。

私は最近、世間の『暗黙の了解』的なものによく苛立ちを感じてしまう。常識から外れたことを言うことが、まるで悪であると断言するかのような態度に辟易するのだ。

特に私のような心根の弱い人間にとって、自分たちの常識を疑わない人々に異なる意見をすることは、尋常でないストレスになり得る。

常識を述べる者と述べない者の間には、初めから理不尽なパワー関係が築かれているのである。

そういったパワー関係をもろともせず、常識と非常識の合間をスルスルとかいくぐれる人間が、きっと人望を集め、大きなことを成し遂げるのであろう。

ならば、常識的なことを強要してくる人間をむやみに拒絶するのではなく、そういった考えを持つ人を受け入れつつ、自分の意見を述べることを諦めないことが、肝要なのではないかと思う。

一度は、人を理解しようとする。それで、やっぱり合わないなと思えば、手放せばいいだけである。

人との関わり合いに臆するのではなく、色んな人の考えを吸収する。そして、おおきな大人になろう。


そう思った。

犬のキモチ

早朝の5時から犬の散歩に出る。
これは私の意思によるものではない。

犬の意思により、私が動かされたのだ。

犬は毎朝5時に餌をもらい、散歩をしてもらっている。これを普段は母親が行っているが、今日は母親が出かけているため、私がしなければならない。

犬は時計の針くらい正確な体内時計を持っている。毎朝5時になるかならないかの所で、玄関のドアをガリガリと引っ掻き吠えることで、私たち人間を駆り立てる。まるで、『何怠けてんだ。もう朝だぞ。早く起きて飯ださんかい。』とでも、言っているかのよう。

幸いにも私は朝型の人間だから、犬に起こされることに何ら不服はない。だから、今日も『ハイハイ起きてますよ。ちょっと待ちなさいよ。』といった具合に犬をたしなめながら、餌をやる。犬はよほど空腹だったのか、餌皿に盛る途中から、すでに餌皿に顔をつっこんで食べ始めた。

餌をやった私は一度家の中へ戻り、散歩の準備をする。しかし、家に入って2、3分もしないうちに、また犬がガリガリとやり始めた。『早すぎるだろ。ウィダーインゼリーじゃないんだから。ちゃんと噛んで食べろよ。』と心の中でボヤきながら、散歩の準備を進める。

久々の散歩だったため、奮発して1時間歩きコースを選択してやった。犬もさぞかし嬉しかったことだろう。


まだ辺りが薄暗い中を、一匹の中型犬と20代半ばの男が歩く。


一時間の散歩を終え、家に帰ってくる。風呂に入ろうと湯を沸かす。『よし、朝から充実してる。』と少し悦に入りながらぼんやりしていると、玄関のドアを引っ掻く音がまた聞こえてくる。

『嘘だろ?!』シンプルにそう思った。私は今日、ヤツに極めて献身的な態度を示したはずである。責務以上のことを求めるのは、ヤツの我が儘だろう。話が違うじゃないか。とただの犬に対し一人ゴチる。

仕方なく玄関のドアを開け、犬を見にいく。すると犬は、首を傾げながらその場で直立していた。犬は私に何かを求めるとき、決まって飛びかかってくる。しかし、今はそれがない。


そうか!
母親に逢いたがってるんだ。

いつも、笑顔で玄関から出てくる母親が出てこないことに、この犬はクエスチョンを投げかけているのだ。

しかし当然、犬に母親がいないことを伝える術はなく、玄関のドアのガリガリ音はその後しばらく続いたという。

自分の生きたいように生きる。

喜びを得たいのであれば、それ相応の苦しみに耐えなければならない。

私は人付き合いが得意な方ではない。
だから、いつも人に臆して自分の意見をハッキリ言えなかったりする。その背景に、自分の意見を否定される事への懸念があるからだ。このような状態に身を置くと、特別な苦しみは感じなくて済むが、慢性的な不安感と倦怠感に襲われる。そして、喜びは全くと言っていいほど味わえない。

逆に、自分の意見をハッキリと述べると、苦しみ・喜びの両方を手にすることが出来る。この2つは、その割合はともかくとして、常に背中合わせになっている。人は何かの犠牲の上で幸福を得るのである。

この原則を無視し続けると、成長することができず、周りにおいてけぼりをくらうため、倦怠感はますます高まっていく。

最近やっとの事で、この理論を身体に落としこみ、前向きに人生に向き合うようになった。そして、一生懸命な生き方を見つけることが出来た。

自分の生きたいように生きる。そのためには、苦しみに耐える胆力が必要だ。

想像上の花粉症

どうやら花粉症の季節がきたようだ。

そうは言っても花粉症ではない私には関係のない話であるし、花粉が舞っていることすらも伺い知ることが出来ない。本当にありがたいことだ。

そんな私は、周囲の変化から花粉の状況を知る。例えば今日、職場では太っちょな職員が2つのティッシュ箱をむんずと掴んで自分の席へ持っていったし、家では母親がバカでかいクシャミを連発していて、騒音具合がヒドかった。

花粉症を実際に体験したことはないが、はたで見ているだけで恐ろしくなる。そして、絶対になりたくはない。だから、こんな季節にクシャミが2回連続で続いたりすると、私は戦々恐々とした気持ちになる。もしかして、花粉症になったのではないかと考えるといてもたってもいられず、ソワソワする。しかし、いつしかそんな事は忘れて、その内に気づく。『そういえばアレ、花粉症じゃなかったな』って。

こんな事を書き続けていたら、花粉症の人たちに殺されてしまうかもしれない。だから、花粉症の人たちには、補助金をあげてもいいくらいだと思ってるって事を付け足しておこう。これで、花粉症人たちの暴動は抑えられそうだ。でも、本当に花粉症であるって事は、それだけハンディがあるわけだから、何か報われてもいいと思ってるよ。例えば、大事な会議の最中、冷え切った空気をクシャミで引き裂いてしまったらと思うと恐くて身がすくむし、眠っていてもクシャミで10分ごとに起こされるという地獄を味わっている人もいるかもしれない。失敗が許されないような何か精密な作業中に、鼻の中が、むず痒くなったらthe endだし。

ああ、花粉症って本当に恐ろしい。

また嫌味になってしまったかもしれないから、もう口を閉ざそう。