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やかんと鍋と日記と

ぐうたらと生きる。

おおきな大人になろう。

見知っているといった程度の間柄の人たちと飲みに行く。

親しい間柄でないから、内容の薄い外面を取り繕うためだけの言葉が行き交う。そして、皆否定したりされたくないから、自分が本当に思っていることには蓋をして、常識的なことを話していく。

私は常識的なことを押し付けられると、反発したくなる。でも、親しくもないから、反発しにくい。この状況が物凄くストレスになる。

常識は、その地域、年代、性別によって全く異なることであるにも関わらず、多くの人がそう言っているからという理由で、自分の考えに強い自信をもち、人の人生に介入する。

私は最近、世間の『暗黙の了解』的なものによく苛立ちを感じてしまう。常識から外れたことを言うことが、まるで悪であると断言するかのような態度に辟易するのだ。

特に私のような心根の弱い人間にとって、自分たちの常識を疑わない人々に異なる意見をすることは、尋常でないストレスになり得る。

常識を述べる者と述べない者の間には、初めから理不尽なパワー関係が築かれているのである。

そういったパワー関係をもろともせず、常識と非常識の合間をスルスルとかいくぐれる人間が、きっと人望を集め、大きなことを成し遂げるのであろう。

ならば、常識的なことを強要してくる人間をむやみに拒絶するのではなく、そういった考えを持つ人を受け入れつつ、自分の意見を述べることを諦めないことが、肝要なのではないかと思う。

一度は、人を理解しようとする。それで、やっぱり合わないなと思えば、手放せばいいだけである。

人との関わり合いに臆するのではなく、色んな人の考えを吸収する。そして、おおきな大人になろう。


そう思った。

犬のキモチ

早朝の5時から犬の散歩に出る。
これは私の意思によるものではない。

犬の意思により、私が動かされたのだ。

犬は毎朝5時に餌をもらい、散歩をしてもらっている。これを普段は母親が行っているが、今日は母親が出かけているため、私がしなければならない。

犬は時計の針くらい正確な体内時計を持っている。毎朝5時になるかならないかの所で、玄関のドアをガリガリと引っ掻き吠えることで、私たち人間を駆り立てる。まるで、『何怠けてんだ。もう朝だぞ。早く起きて飯ださんかい。』とでも、言っているかのよう。

幸いにも私は朝型の人間だから、犬に起こされることに何ら不服はない。だから、今日も『ハイハイ起きてますよ。ちょっと待ちなさいよ。』といった具合に犬をたしなめながら、餌をやる。犬はよほど空腹だったのか、餌皿に盛る途中から、すでに餌皿に顔をつっこんで食べ始めた。

餌をやった私は一度家の中へ戻り、散歩の準備をする。しかし、家に入って2、3分もしないうちに、また犬がガリガリとやり始めた。『早すぎるだろ。ウィダーインゼリーじゃないんだから。ちゃんと噛んで食べろよ。』と心の中でボヤきながら、散歩の準備を進める。

久々の散歩だったため、奮発して1時間歩きコースを選択してやった。犬もさぞかし嬉しかったことだろう。


まだ辺りが薄暗い中を、一匹の中型犬と20代半ばの男が歩く。


一時間の散歩を終え、家に帰ってくる。風呂に入ろうと湯を沸かす。『よし、朝から充実してる。』と少し悦に入りながらぼんやりしていると、玄関のドアを引っ掻く音がまた聞こえてくる。

『嘘だろ?!』シンプルにそう思った。私は今日、ヤツに極めて献身的な態度を示したはずである。責務以上のことを求めるのは、ヤツの我が儘だろう。話が違うじゃないか。とただの犬に対し一人ゴチる。

仕方なく玄関のドアを開け、犬を見にいく。すると犬は、首を傾げながらその場で直立していた。犬は私に何かを求めるとき、決まって飛びかかってくる。しかし、今はそれがない。


そうか!
母親に逢いたがってるんだ。

いつも、笑顔で玄関から出てくる母親が出てこないことに、この犬はクエスチョンを投げかけているのだ。

しかし当然、犬に母親がいないことを伝える術はなく、玄関のドアのガリガリ音はその後しばらく続いたという。

自分の生きたいように生きる。

喜びを得たいのであれば、それ相応の苦しみに耐えなければならない。

私は人付き合いが得意な方ではない。
だから、いつも人に臆して自分の意見をハッキリ言えなかったりする。その背景に、自分の意見を否定される事への懸念があるからだ。このような状態に身を置くと、特別な苦しみは感じなくて済むが、慢性的な不安感と倦怠感に襲われる。そして、喜びは全くと言っていいほど味わえない。

逆に、自分の意見をハッキリと述べると、苦しみ・喜びの両方を手にすることが出来る。この2つは、その割合はともかくとして、常に背中合わせになっている。人は何かの犠牲の上で幸福を得るのである。

この原則を無視し続けると、成長することができず、周りにおいてけぼりをくらうため、倦怠感はますます高まっていく。

最近やっとの事で、この理論を身体に落としこみ、前向きに人生に向き合うようになった。そして、一生懸命な生き方を見つけることが出来た。

自分の生きたいように生きる。そのためには、苦しみに耐える胆力が必要だ。

想像上の花粉症

どうやら花粉症の季節がきたようだ。

そうは言っても花粉症ではない私には関係のない話であるし、花粉が舞っていることすらも伺い知ることが出来ない。本当にありがたいことだ。

そんな私は、周囲の変化から花粉の状況を知る。例えば今日、職場では太っちょな職員が2つのティッシュ箱をむんずと掴んで自分の席へ持っていったし、家では母親がバカでかいクシャミを連発していて、騒音具合がヒドかった。

花粉症を実際に体験したことはないが、はたで見ているだけで恐ろしくなる。そして、絶対になりたくはない。だから、こんな季節にクシャミが2回連続で続いたりすると、私は戦々恐々とした気持ちになる。もしかして、花粉症になったのではないかと考えるといてもたってもいられず、ソワソワする。しかし、いつしかそんな事は忘れて、その内に気づく。『そういえばアレ、花粉症じゃなかったな』って。

こんな事を書き続けていたら、花粉症の人たちに殺されてしまうかもしれない。だから、花粉症の人たちには、補助金をあげてもいいくらいだと思ってるって事を付け足しておこう。これで、花粉症人たちの暴動は抑えられそうだ。でも、本当に花粉症であるって事は、それだけハンディがあるわけだから、何か報われてもいいと思ってるよ。例えば、大事な会議の最中、冷え切った空気をクシャミで引き裂いてしまったらと思うと恐くて身がすくむし、眠っていてもクシャミで10分ごとに起こされるという地獄を味わっている人もいるかもしれない。失敗が許されないような何か精密な作業中に、鼻の中が、むず痒くなったらthe endだし。

ああ、花粉症って本当に恐ろしい。

また嫌味になってしまったかもしれないから、もう口を閉ざそう。


やりたくない仕事で残業するくらいなら。

残業が多くなる時期になった。

繁忙期だ。
4月から12月まで、アホぐらい暇だったのが一転しての忙しさである。今年度の実績を上げるため、躍起になっている課長が職員の仕事状況を鑑みずに仕事をバンバン入れていく。私たちは少し課長を恨みながら、それでも黙々と作業に徹する。

ガタンッ、トンッ、ウィーン、ギャアァァァ、トンッ。これは木材を機械で切る時の音だ。これを延々と繰り返す。退屈といえば退屈だか、最近はそれほど嫌な気もしない。心が無になるからだ。しかし、残業までくると何だか疲れがグッと高まってくる。17時までだと思い、頑張ってきたのに、まだあるのかと思うと気が遠くなる。

とはいえ、ウチの会社だと残業は最長で2時間程度だから、まるで大したことはないのだろう。そう考えると世のブラック企業が恐ろしくなる。やりたくもない仕事を延々とやらされるというのは、まるで遠い昔の奴隷たちを想起させる。

しかし、私はやりたい仕事なら、残業もそれほど苦痛には感じないのではないかと思っている。残業を馬鹿みたいにやらせるブラック企業は悪である。この認識には異論はない。でも、そこに目的意識が重なれば、仕事に充足感を感じられるのではないかと思うのだ。結局、私たちの人生の中心は仕事だ。ならば、残業が多くてもやりたい仕事をした方がお得だろう。




だから今、私は転職活動の真っ只中だ。





ウチの会社では、今年は臨時職員が2名退職することになっている。どちらの職員も戦力として、申し分ない働きをしていたから、ウチの課としてはかなりの痛手を受けることは間違いない。そこへ、私の退職が重なれば、工場が全く機能しなくなってしまうこともあり得る。

でも、だからといって転職を諦めるという考えには至らない。なんせ私には時間がない。もう25歳で今年26になる。新しいことを始めるなら、今しかないのだ。

だから、奴隷のようにやりたくない作業を続けることを辞め、やりたい事で取り憑かれたように仕事に取り組みたいと思う。


人を苛立たせる天才たち

嫁の仕事終わりが遅くなったため、夜の9時頃にガストで夕食を取りに行く。

久方ぶりのガストだ。
正直にいうと、私はガストを少し下に見ている節がある。ファミレス界の圧倒トップにデニーズ、その他はどっこいどっこいで、その中にガストも入っている。そして、最下層にサイゼリヤが君臨する。私の中ではそんなヒエラルキーがある。

でも、久方ぶりに訪れたガストは、意外と美味しかったし、内装もシャレていて、温かみのある雰囲気に変わっていた。食わず嫌いはそこそこにして、何処にでも行ってみるもんだなと思えた。




しかし、そんなガストで一つだけイラついたことがあった。

まず、店内に足を踏み入れると、強い視線を感じた。何か嫌な視線だなぁと思いながら、その方向へ視線を向けると、席について料理を待つ二人の20代中盤くらいの男たちが、何故かこちらをずっと凝視しているのが見えた。一瞬知り合いかとも思ったが、全然知らない奴らだ。それにしても見てくる。ねっとりとした視線は私を一瞬のうちに不快にさせた。何なんだよコイツらと思っていると、店員に席を案内された。しかし不運にも、そいつらの席の隣に案内されてしまった。何か嫌だなと思いながら、イソイソと席につく。

席について10分くらい経った頃、女が一人入店。そのまま流れるように隣の二人の男の席に合流した。その女は入って来るなり、バッグを自分の向かいのソファーに投げつけた。すぐ隣にいた私は、ここは自分の家のリビングじゃねぇんだぞと思い、ここでもイラッとした。類は友を呼ぶのかと考えながら、イライラを心の内に納める。

その後、その3人は、注文のため店員を呼んだ。しかし、呼んどいて店員を待たせたまま、談笑を始めるという迷惑極まりないこともやってのけた。はよ注文したれやと、私はまたまたイライラする。店員のイラつきはそれ以上のものだったのだろう。感情が顔に如実に現れていた。

人を苛立たせる天才っているんだなと思った。



巨乳であることの弊害

こんなこと言うのはなんだが、私の嫁の胸はデカい。

嫁はそれが嫌みたいだ。

一般的に胸がデカいことは、イイことであるとの風潮があると思う。胸が小さい女の子は大きな胸に憧れを抱くだろうし、男も巨乳好きは多いはずだ。そうでなければ、グラビアに出てくる女の子がことごとく巨乳である理由が見つからない。

しかし、それを持つ張本人は色々と苦労している。まず、純粋に胸が重いとのこと。確かに、よく胸で肩がこるというのを聞いたことがある。

嫁は「両方合わせて3キロはあると思う。だから、辛いよ。重いから胸の筋も伸びて、乳が垂れやすくなるし。もし、お前のちんこが3キロあったらどうする?」と聞いてきた。

私は思わず吹き出してしまった。
ちんこ3キロという語感に完全にやられてしまったのだ。

しかし、冷静に考えるとちんこが3キロあったらとても辛いだろうなと思う。

ちんこが邪魔して走ることもままならず、ガニ股になるし、逆にそれだけの重量があるから、ちんこの防御力は上がっていそうだけれど、皮が伸びてキモさが倍増しそうだし。

あらゆる弊害が一瞬で思い浮かび、巨乳って辛いんだなぁと思えた。

あと、着れない服が多いのも巨乳の欠点である。最近は細身の服が主流で、巨乳の人は選択肢が狭まってしまう。実際、嫁も服を選ぶ時には伸びる生地か、胸の部分を考慮してもオカシクならないかを吟味して服選びをしている。

巨乳ってのも考えものだ。

結局人間、ないものねだりなんだよなぁ。